61才にして 大卒 になり なにが変わったのか 【入学した頃】
私の大学生活は、ここから始まりということはなく、気がついたら自宅に大量の郵便物が届き、大学から指定されたサイトを開くと「学籍番号」というものがあり、だれにもなにもいわれないのだが、何かをしないといけないようになったのだ。
あとで知ったのだが、京都の本校で入学式(参加自由)もあったようだ。そのお知らせすら気がつかなかった。
郵便物は、勉強を開始するための説明書やレポートを返信するための封筒が大量に入っていた。初めて知ったのだが、大学のレポートを提出するための「郵便料金」は、すごく安い。現在は少し上がったかもしれないが、当時で封書が25円という破格値だ。
50才をとうに過ぎた人にこんな投資をされていいのだろうか。本来ならば若い人(苦学生?)にその恩恵があるはずなのに、申し訳ないような気になった。しかし、結論を先にいうとすればこの25円の封書は、なんと1回しか使っていない。それはこのあとに書くが、コロナ禍により、オンライン化が加速したため、ほぼ必要がなくなったからだ。
私が入学したのは、2020年4月。6年前の「コロナ禍」の初期、つまりパンデミックの最中だ。
不要不急の外出を禁止され、当然のように向かうのはパソコンの画面になる。
学籍番号は、会社員時代の社員番号のようで、はじめはメモを見ないと入力できなかったが慣れてくると指が自然にその番号を叩く。あとでわかったことだが学籍番号には入学年度と学部・コースが数字でわかるようになっている。そしてその中にさらに暗号として1年次からの入学か3年次編入かがわかるようになっている。それ以外はたぶん先着順だ。名前の50音とかではない。なぜならば私の名前は後ろの方なのに、若い番号なのだ。
と、この学籍番号に引っかかる人はあまり多くはないだろう。だが、私はここにも学歴差別が潜んでいると悲観してしまった。つまり、1年次入学はいわゆる完全なる高卒。3年次編入は、専門学校・高専・短大、そして既に大学(学部)卒や院卒が含まれているため、レポートを講師が読む際に、そのバイアスがかかることになると思うからだ。
これは卒業近くなって知ったが、通信制の芸術大学にはほんとうに多様な人がいる。18歳~80代までと事務局は謳っているが、職業もさまざま。純粋に大学生をやっている若者・会社員・主婦をはじめ、現役の医師・大学講師・芸能人はもちろん、会社経営者もザラだ。そして居住地も全国隅々だけではなく、私が実際に出会ったのは、スイスやシンガポール在住という、ツワモノも学びに来ていた。
うっかり学歴と一括りにしてしまうが、医学部卒もいれば有名大学の院卒・海外のMBA取得者という高学歴者も芸術大学にはいたのだ。
さて、学籍番号に戻ると、1年次入学を番号で差別化することを学歴差別と言ってしまったが、逆を思えば専門学校卒も博士号を持つ人もここでは3年次編入という同じ学籍番号に括られていたのだ。そちらの方が差別的かもしれない。
ところで「入学の費用は?」とよく人に聞かれるが、入学金は数万円(早いほど安い?)で年間の学費が30万円くらい(現在は変更になっている)だ。
実際、その後どれだけのお金が必要だったのか?それはどの単位を取るかで決まることになる。
とにかく安くおさめるには、スクーリング(有料)を極力減らし、テキストやオンデマンドの無料授業を受けることなのだが、これは無味無臭の放送大学に近い。つまり、だれとも接触がなく自宅だけですべてを終わらせるもの。孤独・集中・安価がキーワード。
それとは逆に、京都の本校にも外苑キャンパスにも出向いて、多くの学生と交流し、講師とも親しくなるという授業の取り方もある。それには、1回(1単位修得)に1万6千円~5万円(交通費・宿泊費除く)がかかる。たとえば、京都の大学本部で煎茶の授業を1日半(土曜午後・日曜終日)受けるとなると、私の場合には東京・京都往復交通費(学割もあるが使いにくい)・2泊分の宿泊費・食事などの滞在費プラス授業料2万円くらいで、合計9万円はかかったのだ。折しも、私が在学時(2020~2025年にはインバウンドの影響で京都の宿泊は高騰し、宿泊代がかさんだのだ。こちらは、交流(異なるコースも)・京都堪能・学生謳歌がキーワードだ。
ということで、まずは「シラバス」(会社でいうイントラネット)を毎日開けて、大学が推奨する授業から始めてみた。
推奨する授業とは、大学の授業でもっとも大事なこととは、レポートの書き方を学ぶためのものだ。しかし、2020年の入学当時にはそれにふさわしいものは少なく、というか講義名がわかりにくいため、右往左往しながら読みやすいテキストを漁ったのだ。
その後、卒業近くには「アカデミックスキル」なるものがあり、文章を書くというよりも頭をどう使うかのような授業も増えたのだ。
入学してすぐに実感したのは、私のリアル19歳当時には、レポートはすべて手書きで、インターネットもスマートフォンもパソコンもなく、ひたすら図書館(検索もネット無し)で鉛筆を走らせていただろうが、今はなんと楽になったのだろう。と、この時に、50代になってからの大学入学も悪くないなあ~~と思ったことだ。
そうそう、図書館はやはりどう頑張っても通わないといけないため、近隣を含めて3つの図書館の使用カードなるものをこの年齢にして初めて作成。
図書館がいかに便利で、かつ私たちの税金が多く投入されていることに気づいたのは、大学に入ったおかげだ。
図書館に何をしに行くのか?それはレポート書く際のヒントを見つけるためでもあり、刊行文献や引用となるものを探すためでもある。
「問いを立てる」ということばを大学講師はよく使うが、レポートを書くには、まず「どうしてこうなのだろうか」「あの考えはどこから来るのか」など、疑問をもたなければいけないのです。それをひも解いていくために、さまざまな本を読んで結論を決めて行く(決めなくてもよいがその過程を知る)のがレポートを書くということ。と、私は思う。
しかも、昨今はAIが何でもやってくれるようになってしまった。どんなこともそれなりに書ける。が、しかし、それでは大学に入った意味がないのだ。せっかくだから、楽しむしかない。と、簡単に卒業のつもりが、図書館に通うのが日常になったのだ。
と、ここで仕事はどうしていました?と気になるでしょうね。
パンデミックに怯えつつ、やっていました。その後は自分のペースができるまで時間がかかった気がします。
61才にして 大卒 になり なにが変わったのか 【学部選び】
やっとつかんだ「大卒」だったが、いったい何を学んだのか。
正直に話すと実は「大卒」が得られれば、なんでも良かった。
そのため、もっとも楽に卒業ができる分野を考えてみた。
となると、受験に臨むことや毎日通学するのは不可能で、通信制しか選択肢はない。
いっておくが、大学を探したのはコロナ禍の直前の2019年秋で、その後コロナ禍により
「自宅にせかく籠るのだから、何かはじめよう」という人が増え、2020年からは「学び直し」というブームが押し寄せる前のことだ。
やはり通信制といえば、NHK放送大学が有名だが、テキストとテレビを観るだけでレポートを書くというような、地味な生活を私がおくれるはずはない。あとは、日本大学や法政大学(菅元総理や鈴木北海道知事なども)などなど、自宅からも通える(スクーリング)ところは浮かんだものの、これまでの仕事でまったく関連のない法学や経済学を学ぶことは還暦前の者には無理があった。
と、ここで話を高卒時に戻すが、地方の自営業の父を説得して「東京に進学」するために私が考えた技はひとつ「家業を継ぐから東京に出してくれ」だった。
となると美容専門学校。学校選びをすることはなく、父の尊敬する地元美容家の母校である新宿の美容学校に入ったのだ。
すこし解説すると、当時の美容学校は中卒でも可能な各種学校と高卒が入れる専門学校があり、どちらも1年。卒業後にインターンという美容室での修行をしたのちに、国家試験の受験資格が得られ、学科と実技に合格すれば美容師という国家資格を得ることができた。だが昨今は、その制度が改変され、美容師になるためには、高卒後に2年生の専門学校に入り、卒業直前に国家試験(インターンは不要)を受験できることになっている。そして、ここでもっとも大事なことは、その専門学校を卒業していれば、大学入学時に編入扱いになり(高専や短大卒と同等)、3年次編入!!となる。とはいえ、これは入学試験がほぼない通信制の大学に限ってのことだ。
と、いうことでたとえ「美容学校」を卒業していても、昭和の教育を受けてきた者は高卒扱いになり、1年から大学生を始めることになるのだ。
と、いうことで、いったいどこならば、これまでの私の仕事の内容や趣味などが活かされるのか?
美容師の資格・美容室勤務・化粧品会社で商品開発となればこたえは簡単だった。芸術学部である。
すると、すぐにネットで出てきたのが、瓜生山学園京都造形芸術大学というところだった。
そういえば、知り合いでそこの短大を卒業した人が2名もいた。どちらもセンスがあり芸術学部らしい仕事をしていた。
しかも京都は、6年くらい仕事で毎月滞在していたため、土地勘もあった。
京都にも通うつもりだったが、外苑前にキャンパスがあり、スクーリングもスムーズにいけそうだった。
そして、説明会が外苑前のキャンパスであるというので行ったのだが、ここで私は大きな選択を迫られた。「コース」をどうするかだ。
絵を描く関連のコース・歴史系のコース・染織や陶芸といった工芸のコース、そして小説などを書く文芸のコースなどの中から「一番楽に卒業できるコース」を選ばなければいけないのだ。
自分でいうのもなんだが、色彩は化粧品の会社だったため、身についている。美容師だったこともあり、手先は器用な方だ。しかし、絵を描くのは苦手だ。メイクの眉や口紅を描くのは得意だが、自由に絵を描くとかデッサンは楽しくやれない。
あまり迷わずに「文芸コース」にしたのだった。
この選択が良かったのか、どうかはきっと死ぬまでわからないだろうと思いながら、文芸コースの模擬授業に参加した。
なぜ文芸なのか?
消去法にしか過ぎない。絵は無理。歴史系はもっと嫌い。工芸は嫌いではないが作品の材料にお金がかかるだろう。実は高校まで得意な教科は国語だった。文書を書くのは嫌いではない。となると、文芸。とはいえ、これを4年間、継続できるのか?
文法や漢文、古典は苦手だったはず。大丈夫なのか、と迷いもよぎったが思いたっら、あっという間。気がつけば高校の卒業証明書を申請したり(婚姻姓と旧姓を合わせるための謄本が必要)、入学金を支払ったりと、馬車馬のような勢いですべてが動いたのだ。
61才にして 大卒 になり なにが変わったのか【昭和の女子の進路】
そもそも、どうして 大卒になりたかったのだろうか?
卒業してもなにもかわらない日々に、改めて理由を考えてみた。
私が、大学に入るかどうかの進路を決める時、それは
進学校に入るかどうかが重要だったと思う。
中学3年の時には、昭和50年代の始め。
女性の大学進学率はもちろん低いが、男性であっても3割くらいであった。
といっても、これは全国平均であって、私が育った東北の田舎では
それよりもさらに低い。中学のクラスを今、考えても大卒は2割程度。
女性の短大を入れても2~3割だろうか。
もちろん進学校と言われる高校に進む人は4割くらいいるが
その後、専門学校に進んだり高卒で公務員などになり、純粋に大学に進学した人は
少ないはずだ。
しかも、大学に進学した人のうち女性は、医療系(医学部ではなく)や
教育学部がほとんどで、卒業後は教職につくというコースがデフォルトだ。
短大は栄養士か保育士。まるで朝ドラの主人公になるような話。
こんな中学時代であったが、20代前半はそれでも「女子大生ブーム」
「ハナコ族」「バブル世代」「ジュリアナ東京の人」「お嬢さまブーム」
といわれたのだからほんとうに、不思議だ。
関東や関西の都市部では、中学受験で名門女子大やらの附属に入って
大学生になったら、ワンレンの長い黒髪をなびかせ、ボディコンの服を着て、
太い眉を描き、真っ赤な口紅をつけて、六本木のディスコで踊るという
トレンドの象徴ができたのだ~~
男女雇用機会均等法は?と、思う人もいるだろうが
その法律は、私が23才の頃に施行され、育児休業制度は29才の時だった。
話は戻るが、そんな田舎の中学3年の私が、高校受験で選んだのは
偏差値が50くらいの普通の公立(男女共学)高校だ。
実は、偏差値の高い進学高校に行くつもりでいた。
だが、中3の春に大病を患い、なんと3カ月以上学校を休んだのだ。
無理をして偏差値の高い高校に行くよりも、楽に過ごせる
ところを選んだタイミングで、大学進学の道は途絶えたのだ。
とはいえ、私は偏差値50の高校であっても大学進学を希望し、
いつも進学クラスに在籍していた。
でもでも、当時の田舎の普通の高校で大学進学といっても
すごく頑張っても、地元の短大の家政科か、東京の名も知らない
国文科となる。
福祉や介護というものもまだ少ない時代。
看護師・保育士・栄養士・教師・秘書という女性特有の専門職
になるのが当時の女性の王道。
パソコンもない時代だったため、「事務職」は高卒が当たり前。
そろばんやタイプライター・電話の受付など、19才からはじめる方が
企業としても「楽」(若くて素直・給料安く・寿退社ですぐいなくなる)だった。
と、前段が長くなったが、という訳で私は、そもそも
周りの人々と同じ人生を歩むことをしたくないと思ってきた。
たぶん、中学3年の大病で同級生と違う場所の空気を長く吸ってから
「戦うのは、したくない」と考えてきたのだ。
しかし、高卒のままではどうにもつまらない。
もっと、何かをつかみたい。そして何かを探したいと思っていた。
その何かとはなんだろう。いまだにわからないのだが、
高校時代は、放送部に入り「NHKアナウンスコンテスト」で入賞することを
目指していた。
アナウンサーというか「放送」という、メディアに関わることをしたかった。
そんな時、ふと目に止まった雑誌記事にTBSの男性アナウンサーが出ていた。
その方は誰だったのが実は覚えていないが、出身大学は
「日本大学芸術学部放送学科」とあった。
あ、ここに入りたい。ここに行けばなんとかなる!とひらめいたのだった。
しかし、周りを見渡してもそこに進学した人を知る人は誰もいない。
今のように「オープンキャンパス」などもなく、辞書のように
分厚い「進学ガイド」というものを読むしか情報はなかった。
受験科目や日程と場所があるだけで、どうしたら受かるのか?
入学後はどんな日々か?など、謎のままだった。
せめて、この近く(練馬区江古田)に、行ってその空気を
感じとりたいと「とにかく東京に進学したい」と
全方位(親・姉・兄・友人)に騒ぎたてていたのだ。
親は「そんなところに行かせる金はない」の一言。
「ふざけているんでしょ~~」と姉に笑われ、高校の担任には
「だったら、もっと勉強しないと」と、相手にされない。
いよいよ、最終段階になり、少しだけ受験(なぜか看護学部)をしたが不合格。
だが、その勢いで、東京新宿の専門学校に行くことになった。
これについては、どこかで書くが、実家の家業に直結するところだ。
父は家業を継ぐということであれば、東京に進学させると折れてくれたのだ。
と、いうことで、私は高卒後、大学には進学しなかった。
いや、できなかったのだ。
昭和50年代の社会情勢を鑑みると。。。
女性高卒が当たり前→20代前半で結婚・出産・育児のループ
女性が大卒となると、教師になるのが常識→ロールモデルがそれしかいない
田舎から大学に行くには、国公立か早慶・せめてMARCHでないとはずかしい。
→学費・下宿・その後の進路などから、「金をかけて東京の大学」に
娘を行かせているのだから、そのくらいの有名大学でないと世間にはずかしい。
と、いう「世間体」を強く意識した進路になるのだった。
話は長くなったが、私が50代で大学に入った際、多くの高齢の友人が
「親に従うと、好きな大学にいけなかった。今この歳になって
自分が行きたいところに、自分のお金で行ける!!」
と、嬉々として語る姿に、思いっきりうなづく私だった。
そうです、私は日本大学ではないのですが
芸術学部芸術学科に
進学したのでした。
61才にして 大卒 になり なにが変わったのか【学歴って】
放置していました、このブログ。
気持ちを整理してじっくり書こうと思っていたら、なんと2年以上も経過。
2025年3月、ほしくて欲しくてたまらなかった「大卒」になりました。
高校3年の時にはそれほど欲しいとは思わなかったのですが、
企業に就職したタイミングで「あからさま」に、区分けされたため
「大卒」というものの見えない価値がいかに社会生活で重要なことなのかを
実感。56才にしてチャレンジを開始し、5年かけて通信制の大学を卒業しました。
そもそも「大卒」でないと、どんな時にじわっと、くやしさがこみあげるのか?
だれもが感じるのは「履歴書」を書く時ではないかと思う。
それから、会社員であれば、昇給時や昇格時でしょうか?
そうでないとしたら、5年周期である「国政調査」ですね。
2025年に大卒になり、履歴書を書くようなことは今さらないため
「そうだ国政調査の質問に 大卒 と〇をつけるんだ!」と意気込んでいましたが
どこを見てもそのような質問はなく、空振りに......。
2025年から学歴の欄はなくなったのです。
他のビックデータで読めるのでしょうか?
と、いうことで、せっかくつかんだ「大卒」もそれを示す機会が
まったくないという、61才の大卒です。
卒業からほぼ1年。だれかに聞かれることもなく、どこかに書くこともなく
淡々と私の日常が過ぎていくのでした。
50代の大学生 『社会人大学生ブログはじめます』
通信制の大学に入って3年。
せっかくなので、日記を書くことにしました。
私:50代 フリーランス(企画系)、50代初めに会社を早期定年退職。
入学した動機は、会社を退職してから時間ができて、ふと今後を考えた時、
自分が死ぬまでにやりたいことの一つに大学生になりたいということがあったから。
私は高卒後に1年間専門学校に通っただけ。
あのキャンパスという場所に入り、学食を食べたり、図書館でブラブラしたり
友人とキャッキャしたりをやりたかった。
が、2020年といえば、コロナの始まり。
授業はほぼZOOM。
やるきゼロ。
そんな中、なんとか70単位を取得。
卒業まであと54単位。
というこれまでのことや今後のことを書いていきます。
次回につづく。
短歌ブログ 1.31
施設行き 絶対イヤと母がいう 手を温めて白髪なでる
50代娘の日常
